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ペンション・モーツァルトの世界

モーツァルトの金星蝕

大庭みな子

「モーツァルトへ金星蝕を観に行こう」
道子が電話をかけて来た。
「モーツァルトへ?モーツァルトって?」
「そう、山中湖のモーツァルト」
そう言えば、道子は2,3年前から事あるごとにモーツァルト、モーツァルトと騒いで山中湖の<モーツァルト>というペンションに出かける。
「どうも体の調子がおかしい」「すっきりしない」「頭のおかしい作家だの絵描きだのの相手をしていると、こっちまで頭がおかしくなる」といった不平が続くと、きまって、「ちょっと<モーツァルト>へ行ってくる」ということになり、しばらくするとさっぱりした顔付きで帰ってくる。

モーツァルトはまあそういった作曲家だったかもしれない。なんとなく病いを癒して自分は病いに倒れてしんじゃったわけねえ、と真木は思った。山中湖なら富士山が見えるのだろう。赤富士になるように赤いセルロイドの眼鏡を持って行くことにしよう。雪の山脈が真っ赤に見えて、枯野原が火の原になって、そよぐかしらん。金星も真赤な火星みたいに見えるだろう。烏が濡れた血色の空から血の海に墜落する。

「いつも、モーツァルトばかりしか聞けないのかなあ、そのペンションじゃあ」

「バッハだってベートーベンだってやっていることもある。本やレコード、いやテープかCDかもしれないけれど、そんなものが蒐集した家具みたいに置いてある。なつかしい立派な本がインテリアのリヴィングルーム」 道子はインテリアと言いながら、微笑んだ。

「本の背表紙は昔からインテリアだったけれど、開いた頁や文章、斜めにずらした本の置き方なんぞはもっと当世風なインテリアってわけ」

真木は、デカルトだのスピノザからデリダまでが頭の中で絡み合っている客筋の額の皺の寄せ方を目に浮かべた。女主人が客間の最大のインテリアである。<モーツァルト>とやらで、後姿になりかけの青春を無理やり引きとめて振り返らせる週末も悪くない。

「それに、いろいろ、へんなお客に逢えるし」

道子は言い添えた。

「とにかく、<モーツァルト>で“へん”なお客にめぐり逢えることは、<モーツァルト>の<モーツァルト>たるところなのよ」

道子は強調した。

「つまり、あたしたち二人が相当にへんだからね。当り前だ」

真木はタオルと寝巻とモヘアのケープを大きなバッグに詰め、ダウンジャケットにブーツ姿で道子の運転する車に乗り込んだ。朝の六時である。

大月を過ぎるころから富士ははっきりと見え出すが、富士は赤くはならず、ピンク富士といった程度。真木は用意して来た赤い、セルロイドの眼鏡をかけて、まあこんなものだろうか、と頷いた。

道子の運転歴は七年だが、脇に座っていてどきどきしないで済む腕前だ。東富士自動車道路に出ると、道が東に向かうため、昇る太陽を真正面に見つめて進むことになり、苦労している。路肩の掲示板には気温マイナス5度、風速1メートルとある。富士はややオレンジ色を帯びた黄色に変る。

山中湖の上にはサーモンピンクの朝靄が幾重にも立ちこめて、その刻々と変わるさまに、思わず、車を停めて見とれた。 靄というよりは、湯気が立ち昇るという感じ。昇る太陽に染まる靄だけが明るく輝き、その他のものは全て色を失って、ぼんやりした影絵である。近くの小舟が黒い人影を載せて靄の中に浮かんでいる。網で魚を引き揚げている様子。

モーツァルトに曲る角のホテルのところで車を停めて岸辺に出る。岸辺はほとんど家に囲まれて、真木は20年前子供の頃、家族で遊びに来た頃を思い出そうとするが、よく思い出せない。

モーツァルトは少し山に入った雑木林にある。大きな回転式の木のドアを押して入ると、リビングルーム風にしつらえた部屋に、所狭しと本が並んでいる。知識人の間に話題になったり、なっているような本は全てとり揃えてあるようだから、客は読まなくても、読んだ気分になるだろう。

本に囲まれたソファでショパンを聞きながら、真木はクレーの画集の頁を繰る。贅沢な植物図鑑や動物図鑑が何げなくその辺りに重ねられている。天文学、地理学、植物学、動物学、建築、船の作り方、酒の本、世界の衣裳、世界の料理、薬草の本などが、哲学や歴史、心理学、社会学の本の間に挟まっている。真木は赤めがねをかけて、その景色に見とれた。

早朝で客は他に誰もいなかったから、二人は全ての部屋の窓からの眺めをチェックして、ケッヘル550という金星蝕の月と金星が富士の傍らに林の間に見える部屋に決めた。勝手知った道子のやり方である。

「朝食が済んだら、その辺りをぶらぶらしよう。金星蝕は夕方の5時過ぎだから」

道子は言って、念入りに化粧を始めた。真木はそれをまた赤めがねをかけてじっと見た。波打つ長い髪を梳っている道子は王女メディアみたいな火の女に見えた。真木が感嘆していると、道子は、

「あなた、金星人みたいよ。赤めがねかけると」

と言った。







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